人生たらたら

書きたいことを書くだけのブログ

なんだか

ね。どよよん周期がまたきた。普段は現実から目をそらしながら息をして心臓を動かしながら過ごしているんですけど、まあたま~にこういう日が訪れるのです。恒例行事なもんです。高齢だけに。うひひ。

 

もう若くはないもんで。外には出ないし何事も続かない一日坊主だし。この間の時間なにかできただろうか?とかんがえたところで結局何もしてないし。現実に向き合わず生きているだけの存在はいったい何者なんだろう?とかなんだか、答えの出ない(出す気力もない)設問に対して沼にはまっていたら、包丁で指を切った。梨の皮切ってたら指切った血が出たね。血ってさ、鉄?の味するじゃないですか。赤血球の中の成分に鉄が含まれているんだっけ?加工品としての鉄類と似たものが生物の体内にも入っているってなんか不思議よね。

 

なんか自分から流れている血を眺めてたら、これまた不思議な気持ちになったのよね。結局止血することもなく、流れている間ずっと血を眺めていたのね。セルフ血を眺めながら梨食べてたのね。これが自分の身体にあってそれが流れているんだなあって。身体ががんばってくれているから心臓さんも動いて生きているんだなあって。なんかちょっと愛おしく思えたんのよね。つつーってなってるのを見たら。自分の身体なのだから自分のもの、とも思えない距離感といいますか、人体としての生命維持が働いているから生きられるんだけど、それは別に人の意思とはまた違うじゃないですか。自分が生きたいから動け!ではないし、逆に止まれ!ができる範疇でもない。

 

自分の体内は自分のもののようで、中身として考えれば本人の意思で動いているわけでもなく本能でもない。病気だってきっかけこそは自発的なものもあるけど病気になって苦しみたい人なんていない。なんでもコントロールできれば誰も苦労しない。あくまで生体の構造としてそう動いていることに過ぎなく、つまりは自分であって自分ではないもうひとつの存在でもあるのかもしれない。血も自分の血ではあるけど自分としての血ではないのかもしれない。包丁で薄皮がめくれたくらいの浅い傷だけどね、まあなんか特別な雰囲気で過ごしましたよ。なんか焚火を見て心が落ち着くみたいなのが巷であるじゃないですか。自分もその気持ちがわかるんですけど、方向性こそ違えどそういった類の時間だったのかなって。それか自分の中から溢れた血を見て、ある一種の生を実感したのかもしれない。わかんない。

 

時間が流れ血は止まりかけ、絆創膏を貼るか…といったところでふらっと傷口に追撃、痛みとともに再度血が流れ延長戦。なんか惹かれたから。さすがに一回でやめた。火もそうだけど、赤ってなんか色としてたぎるよね。そうかな?絆創膏貼るね。おふろしみちゃうね。