人生たらたら

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ぼんやりハート

んで、先日”今までやりたくて探していたゲームソフトを遂に入手した”ことについて。

 

 

そのソフトを手に持ち、じゃあやりますか、と機器に接続しようとしたそのとき、自分の手は止まってしまった。これ以上前に進めない。機器の前で立ち尽くしたまま、そのソフトを持つ手を下ろす。自分は今までこの作品をプレイしたくて追い求めてきたはずなのに、その意思とはまるで裏腹の、この精神状態は一体何なんだろう。

 

雲を掴みに行くような、その感覚に向き合ってみることにする。

 

 

ゲームに限らずどのような分野に対しても、人から向けられる欲というものがある。その分野に興味がある、それは物なのか概念なのか、それが欲しい、それは欲しくない、金で買えるものか買えないものか、買えるものなら買いたい、しかし金がない、力がない、そもそも見当たらない、といったような人それぞれの価値観があると思う。ずっと欲しかったものを見つけたとき、買ったとき、それが好きであるほど、感情の昂りは大きなものとなる。物欲として大なり小なりあったり、物に限らず概念自体も含め、自分が今まで求めていたものを、身に付けた財力、はたまた権力や運も相まって手中に収めることができた際は、その人にとって至高の瞬間になるだろう。

 

それが普通のことであると思うし、現に自分も、探していたものを店で目にしたときは心の中が昂っていた。しかし、あらためてそれに向き合ったら、まさかの有様である。

 

 

”今まで探していたゲームを買った”、これだけの話であるが、事の始まりは”子供の頃にプレイして好きになった作品の前作”ということを後に知ったのがきっかけ。

 

小耳に挟んだだけで、どのような作品かも知らないし、その位置付けの作品とどのくらい相関性があるかも知らないし、前作という繋がりとされてはいるものの、実際は後付け感で彩られた程度なのかもしれない。”これが一応…前作なんよね?”くらいの認識。とにかく何も知らない。

 

知っている人は知っているくらいの知名度、プレミアなどは特別付いていなく、中古店で容易に見つかるほどのものでもなく、誰も知らないようなマイナーすぎる作品ではないと思うけど、自分が子供の頃から探していた作品ため、その思い入れは深い深い井戸の底。

 

正直言ってしまうと、期間として十年以上、自分のこれまでの半生分はゆうに超える期間、探し求めていたものだった。それを自分は探し続け、遂に入手することができた、という流れである。

 

そもそも探していたとはいっても、本気で全力で血眼になって、といったことではなく、中古店に出向いた際に軽く調べていたくらい。それこそネットショッピング的なものが発展した際にも、それで容易に入手できるかもしれないが、利用しようとは一度も思わなかったし、検索したことすらない。

 

衝動買いをしている間、感情の昂りと共に、何か一つ心に引っ掛かるものがあった。”十年以上探していたものを見つけて手に入れた”、その探していた十数年間、それはある一種の”生きがい”として自分の心にあったのだ。おそらく作品を見つけたその瞬間、その期間分の重みの生きがいというものが消え去ってしまい、心の中の一部分に埋められていたものが空っぽになってしまった、ということかもしれない。それと出会いたくて探しているものではあるけど、心の奥底ではこのまま出会わないでほしい、いつまでも手の届かない特別な存在でいてほしい、一年二年、五年十年、そして十数年、年月を重ねれば重ねるほど、その相反する感情が、生きがいという形で大きく膨らんでしまった結果であろうか。

 

 

傍から見れば、”たかがレトロゲーム一本に対して何ほざいてんだ”、”こいつ頭おかしいよ”となるかもしれない。他人様から怪訝な目で見られるのは慣れている。現状自分が言えるのは、生きがいを一つ失ってしまった、ということである。

 

別の角度から考えてみると、作品にはまだ手を付けていないので、まだそこに向き合う猶予はある。しかしそれに実際に向き合ったとしたら、本当に、本当に全てが終わってしまう。自身の生涯の何らかの節目で、あるいはいっそのこと終活として、それまで眠らせておくのもいいのかもしれない。

 

 

 

 

そのような事を頭の中で思い浮かべていた、四月の夜のお話。