生活用品の買い出しに行ってきたんですね。洗顔クリームやら歯磨きセットやら買って、ついでに食料品もチェック。
一段と卵が。
自分はもう食料品の値段を見るたびに”あらあら値段がド派手ねえ”とうなだれているのですが、特に卵の値段がもう…前見た時よりも数段相場が上がっていて。鶏さんのご時世もあり、お一人さま一パックまでの注意書き、そしてその一パックの値段はもう数年前の倍。つい卵コーナーの前で”えっぐ”と(心の中で)真顔となっていました。卵だけに。さすがにこれは手軽に手を出せんとなり、涙目撤退。この先いつになったら相場が落ち着くのか落ち着かないのか、少なくとも現時点では高級品の部類。
んで、そのまま買い物を済ませ帰宅。冷蔵庫の整理をしていると、中にあったのは”最後の一個状態の卵パック”の姿。それを見ているうちに、この卵はもう高級品なんだ、以前までのようなお手軽たんぱく質アイテムではないんだ、あの味も美味しく調理方法も万能で、栄養も豊富で、彩としても風情を与えてくれる、そのような食材…人々にとって身近な存在だったからこそ、いざその身から失ってしまった際の悲しさ…途端にそのラストエッグに後光が差してきたような感覚。ここにある卵一個はもはやただの卵一個ではない、相対的価値としても人々の心に寄り添っている存在としても、この出会いと別れは莫大なファクターとして占めているのだ。
ここでひとつ考えてもらいたい。
”もう卵という食材が(手軽には)入手できない”、そして”手元には卵がひとつ”。このような状況下で、人々はそのひとつの卵に対して、どのような選択をするのだろうか。卵焼き?目玉焼き?すき焼き肉ダンク?それとも各種添え食材?…
\全力卵かけご飯/
結局セルフ議論の余地もなく、自分はこれ一択である。この一個を割り、一周と一周とかき混ぜ、炊き立てのごはんにダンク、しょうゆを適量たらし、一口一口味わいながら、その手元から徐々に失っていく実感とも真正面から向き合いながら、大事に大事に完食。やっぱ卵はうめぇわ、という幸福感。からの当分は会える頻度も減るなあ、という喪失感。食べ終わった後に消費期限が三日ほど切れていたことにも気付いた。
いつかまた再会できる日が来るまで、さらば卵。