コミュニケーションは難しい。とある事情にてあらためて思い知った次第。
関係性や身分によってふり幅はあるだろうけど、このくらいの割合だ!と見極めるまでも難しく、それをいざ実行に移すかの部分も難しく、まんまと外してしまえば取り返しがつかず、挽回に回ろうとするも手遅れとなり、結局そこで立ち止まり前にも進めず懺悔の気持ちのみ残留思念。自分として感情が行方不明、取り返しのなさが不意に付きまとい煙をたてないように立ち止まる。それでよいのかと尋ねられれば、導火線としての火をたてないぶん幾らかはマシではないのだろうか。
しかし、火をたてないその結果が誰かにとっての不利益にうつることもある。困ったことにその頻度があまりにも多い。自分のやるせないところ。
なんでもかんでも察しが悪い空気の読めない人間ではあるが、これがまた自分に対して非があることに関しては高性能レーダーかのような察知能力を発揮する。日頃から抽象的に感じている、そういった気持ちでいるため知らずのうちに鍛えられた性質なのかもしれない。マイナス方向に対してプラスの教育を、生まれ持った性質のみで自己鍛錬してきたというべきか。
マイナス方面に対して今こう思っているんだろうな、困っているんだろうな、と察することは容易い。自分のことはどうでもいい、どれだけ虐げられようがそれは自分の責任として受け止めるだけ。しかし相手側が被ってしまった部分に関してはそう簡単に流してよいことではない。そして大抵は受け止めきれず自らを責め続けるしかなくなる。
後腐れのあるなしに関わらず、いつかその辺りもイーブン程度までもっていけるだろうか。できたのなら、また一歩何かが救われるのかもしれない。