人生たらたら

書きたいことを書くだけのブログ

七学

つまりですね、隙あらば考えてしまうのです。

 

色々なこと。些細なこと。当たり前のこと。誰もが分かりきっていること。様々なこと。流石に怒られそうなのでドギつい方向には考えないけど、ほんの日常の一枚とか、無意識にやっていること、常識非常識。これは論文を記す人でもないし学者でもないしコメンテーター様でもマナー講師様でもない。ましてや社会人すらでもないこの中年ブ男。このふと思い付いた概念、事柄をうだうだと根拠もナシに噛み砕こうとする、そこに真相も真実もない。特に深い信念を持って文字を入力しているわけでも、大義名分もない。この頭を空っぽにしてこねくりながら打ち込む感覚こそが、今のこれには必要なのかもしれない。悪い意味での余裕ともみてとれるかもしれない。しれないしれない仕方がない。いくら模索したところで数学のようなハッキリとした答えが待っているわけではないのだから。

 

ひとつだけ、頭を使っている場面といえば、文字を入力→この語の用法容量は正しいだろうか?→まあ間違えてても別にいいやごめんちゃーりー、といった事の中心部における一瞬のみである。塾講師でもないんだからさ。気楽にいこうぜ。

 

ああ、これの欠点、といった意味では数えどころではない、四倍役満ほどの翻を積めるというのに。面接とかでもあなたの欠点はなんぞゃ?と聞かれれば饒舌になるのにっ…そんなんだから採用されねーんだ。自己分析はできているはずなのだが。データは嘘をつかないのだが、粗悪なデータはいらない。これもまた自己分析のせめぎあいである。

 

嘘を貫き通せば真実となる。ならばどこまで貫けば真実となりうるのか。それは他言漏洩一切無用の条件を満たしながら、周囲のなにげない関係者、データ類含め墓場まで持っていくことである。そこまで持っていてはじめて真実と化す。誰もがその嘘を暴けない、暴きようのない保証が確約したとき、嘘が真実となり、誰も知るよしもない真実が闇へと呑み込まれる。そういった意味では、嘘を貫けば真実になるのではなく、闇へと葬られる、というのが正しい道筋ではないだろうか。一瞬でもほころびをみせるような嘘はどこまでいったって真実にはなりえない。いずれかの可能性が、ひとつでもこの世に残留するかぎり。

 

何故突然このようなことを思ったのか。意味はまったくない。

 

何も考えてないし、寝て起きたら忘れるし、起きたらまた別の二枚舌でべろべろしているかもしれない。深く考えようが考えまいようが、そんなもん。でも今の自分にとっては必要?それすらも分からなくなってきた。こうなっているのだからこれにとっては必要なのだろう。あい変わらずこれはこれだ。