人生たらたら

書きたいことを書くだけのブログ

氷粟

腕が痛いっちゅ。

 

何があったのかというと現場はお風呂場。そのお風呂場掃除の際に、時折とてもいきなりそろみゅーじかるが開催されるんですね。地獄絵図のその光景は即刻処理場行きなのはおいといて、その日の(悪い意味での)気分次第で呼び覚まされる、客のいないホールで行き場のない衝動がモンスターストライク。でですね、滑ったのよ、洗剤で。洗剤の泡立ちとあまりにも貧弱なこの体幹が絶妙にマッチ、身体ごと浴槽に投げ出す形に。

 

その瞬間においては、何かしら考えるヒマはないわけで。漫画みたいに脊髄反射的に動けるような訓練もしていないわけで。気がついたときにはもう身を任せるしかないわけで。

 

本能というか、生命の危機からくるものなのか。大前提として頭部は絶対に守らないといけない、足はとられて浮いている、なので咄嗟に動かせる部位は腕くらいしかない、また別の角度からすれば武術的な全身を使った受け身でどうにかダメージを抑える。ゆえに腕や腰を用いての頭部を守る反射動作、それこそが良い意味での間一髪を巻き起こし、総合的に見てのセーフティお怪我となる。結果肘あたりに1G程度の被害をもたらしたが、洗剤による滑りも考慮してのいてぇけどなんとか無事だった、という結果で済んだのだ。

 

そう、これまでの雪国冬生活スタイリッシュスライディングムーヴは無駄ではなかったのだ。基本的にはペンギン歩きのようにちょこちょこ歩いて頑張るのだが、そりゃあ滑るときは滑るし、そもそも靴によるものも大きいし、表面上からでは見えづらい隠しツルツルブロックもある。だからこそ、常時ある程度滑るか?滑るか?といった心構えを持ちながら過ごしている文化もあり、専門的な受け身等は習ったことも勉強したこともないが、ある一種の備えという精神が身に着いている。

 

それがこの浴槽で発揮されたのかされていないのか全く関係ないのかどうでもいいのか、その因果関係は分からない。だが結果オーライ要素は都合良くプラスとして考えるのも、”あの時のあれ”が無意識に現代に役立っていると捉えるのもまた一興ではないか。そう、一人徒歩で横断歩道を渡る際、道路のど真ん中で思いっきりすっ転び、両サイド信号待ちの自動車ドライバーたちからの視線を独り占め、といったやり場のないド級羞恥ワールドも無駄ではなかったのだ。記憶に残っているもの残っていないもの、丸々含めての積み重ねがあって今がある。無駄は無駄だと思わなければ無駄ではないのだ。世間がいくら無駄だと言おうが自分だけの無駄を糧として磨き上げればいいのだ。いてて保冷剤アイシングをするのだ。