人生たらたら

書きたいことを書くだけのブログ

それはどうかな?

ちょいと一つ愚痴を言わせてくれ。 ”デュエマ”というカードゲームについてのことだ。

 

 

デュエマのルールはどんなもんかと一部説明すると、初めにデッキの上から五枚を裏側にして”シールド”と呼ばれるライフとして設置、それらを全て攻撃し割り、カラッポになった後に再度攻撃(ダイレクトアタック)した方が勝ちとなる。クリーチャー(モンスター)のパワーは(一部能力を除き)クリーチャー同士の戦闘にのみ参照され、シールドを割る枚数にあたっては、それぞれが所持する”一度の攻撃に二枚以上シールドを割る”能力などによって適用される。持ってなかったら原則一枚。

 

例えば”遊戯王”ならばライフポイントとモンスターの攻撃力などがそのまま数値として参照されるが(電卓が必要)、”デュエマ”はモンスターの攻撃(シールドを割る)回数、といったところだろうか。1コス攻撃力1000だろうが10コス12000だろうが、シールド一枚割る事にあたっては同等の存在ともいえる(10コス12000もあれば大体二枚以上割れる能力を持っているが)。デッキにもよるが、低コストでも相手に致命傷を与えられる、というゲームデザインでもある。自分はそういうところは結構好き。

 

シールドを割られた側は、その割られた側の手札に加わる。そして、そのカードが”シールド・トリガー”という能力を持つカードの場合、コスト0でそのまま使用することができる。敵クリーチャーを破壊、手札に戻す、ブロックのできるクリーチャー等いわゆる逆転要素、カウンターパンチである。カードをめくるときのワクワクドキドキ感、いわばギャンブル的な脳汁シーン。この能力を持っているカードは、逆転要素が備われているほどコストが重く、通常では使いにくい。つまり、守りを固めたければ(シールドを信じて)デッキにトリガーの枚数を多く投入する、しかし強力だがコストが重たいのを入れすぎてしまうと手札が事故る。そこがデッキ作成の面白いとこでもある。性格が出る。

 

んで、愚痴ってなんだよ、と本題。

 

 

・デッキサーチはやめろ。

 

カードゲームでお馴染みの能力、デッキの中から特定のカードをサーチ、手札に加える的な効果。デュエマでもサーチ効果があるのだが仕様上シールドの中身が判明してしまう。

 

手札と山札のカードが全て判明するということなので、必然的にシールドに何が置かれているか分かってしまう。シールドを割って(割られて)互いに”うおおおお!!!”となれるシステムなのに、全て台無しにしてしまう。

 

カードの効果によってシールドに意図したカードを仕込む、というものなら勿論効果なので良いのだが、普通に元からあったシールドが分かってしまえば、なんとも面白くない。せっかくのシールドという醍醐味を消してしまっている。他のサーチ効果として、山札の上から数枚めくり特定カードを手札に加える、という効果があるのだが、そこまででいい。シールドというシステムがある以上、デッキの中を全て見てはいけないと思う。なので自分は絶対デッキサーチ系は使用しない。

 

・踏み止まるな。

 

相手のシールドを割りカラッポになった状況で再度攻撃すれば勝ち、と先程述べたが、カラッポの状態で効果が発動するカードがわんさかある。条件を満たせばクリーチャーを召喚、ダイレクトアタックを阻止されたり、無かったことにされたり、そのままこちら側のクリーチャーが破壊されたり。それに加え条件を満たせば何枚もの効果を同時に使われてしまう。

 

相手側のシールドを割るということで相手側の手札が増える(選択肢が増える)、シールドトリガー発動など、攻撃側のリスクを背負ってくぐり抜けてようやく勝利、という場面なのに無かったことにされる。リスクと向き合って攻撃タイミングを考え、シールドガシガシ割ってダイレクトアタック、というのが気持ち良いところなのに、萎えてしまう。やられたくなければ、デッキに入れるシールドトリガーの枚数を増やせばいい、シールドが割られにくい立ち回りができるカードを増やせばいい。何故シールドが無い状態で効果発動され、こんなにあしらわれなければならないのか。

 

 

カードゲームは基本強いカードを刷る→更に強いカードを刷る→ユーザーがプンプン丸になったら制限(禁止)を掛ける→また強いカードを刷る→という流れになるが、そこは商売、売る為なのでそれは当たり前。後者は強力なカードを刷り続け高速化が進んだ結果、シールド+αとしての効果なのだろう、分からんでもない。だが前者はどうにかならないものか。それとももう自分の知らない世界に界隈が進んでいるのだろうか。

 

システムの根本を捻じ曲げるような効果はどうにか抑えてもらいたい、という話でした。おわり。